苦しみに突進せよ──気にしすぎる私と、ヘッセと、シッダールタ
私は昔から、気にしいだ。
誰かの顔色、言い方、返信のタイミング──
些細なことがぐるぐると心に引っかかって、
「こんなん気にしても仕方ない」と思いながら、
でも気にせずにはおれなかった。
相手の期待に100%応えられていないと、
もう存在ごと否定されたような気になってしまう。
頭ではわかっている。そんな完璧なんて求められてないことぐらい。
でも、感情がついてこない。
「頑張らなくていいよ」「そのままでいいんだよ」
そんな優しい言葉があふれるこの時代。
だけど私は、どうしても救われなかった。
むしろ、置いてけぼりになった気がした。
そんなとき、私はヘルマン・ヘッセと出会った。
どったんバッタンと心を生きた人──ヘルマン・ヘッセ
ヘッセの人生は、華やかな賞歴の裏に、
とことん繊細で、傷つきやすく、
自分を持て余していた日々がある。
神経衰弱、逃亡、自殺未遂。
実家との絶縁。社会からの孤立。
そういう“生きづらさ”を、
ヘッセは言葉にして、生き延びた。
決して強くなろうとはしていない。
ただ、正直であろうとしたのだ。
それがどれだけ痛みを伴うことか、
わかる人には、きっとわかると思う。
『シッダールタ』──教えではなく、体験を生きた男
そんな彼が書いた『シッダールタ』という小説に、私は深く心を奪われた。
物語の主人公・シッダールタは、ブッダと同じ名前を持つが、ブッダには従わない。
彼は、知識や他人の教えではなく、
自分の経験だけを頼りに、真理に至ろうとする。
快楽、堕落、禁欲、孤独──
シッダールタは何度も道を見失いながら、それでも進み続ける。
そしてたどり着いたのが、“川”だった。
川の流れを見つめる中で、彼は悟る。
「時間」というものは存在しない。
過去も未来も、すべては今この瞬間にある。
善も悪も、苦しみも歓びも、すべては一つの流れの中にある。
そして彼は、初めて世界の声を“聴く”ことができるようになる。
翻訳を超えて、言葉の奥にいるヘッセに会いたかった
この作品がどうしても忘れられなくて、私は3種類の翻訳を読み比べた。
言葉が変わると、意味が変わる。
「流れ」と書く人もいれば、「連なり」と訳す人もいる。
口調の硬さ、柔らかさ、感情の色が微妙に違う。
どの翻訳も素晴らしかった。
でも、だんだんと思うようになった。
「もっとダイレクトに、ヘッセの声を感じたい」
そう思って、私はドイツ語を学びはじめた。
独学で、ドイツ語検定5級、4級を取った。
ただの趣味と言われればそれまでだが、私にとっては、
心の恩人に近づくための旅だった。
「苦しみに突進せよ」──私が救われた一言
ヘッセはこう言う。
「苦しみに突進せよ」
それを読んだとき、私は震えた。
世の中は優しさで満ちている。
「無理しないで」「抱きしめてあげよう」
それらの言葉が悪いわけじゃない。
でも、どうしても届かないときがある。
私には届かなかった。
そんな時に、「突進せよ」と来たのだ。
ごまかさず、逃げず、覆い隠さず。
苦しみを引き受けることが、
自分自身と出会う道になるんだよと。
ヘッセのこの言葉は、
どんな慰めよりも、私をまっすぐに支えてくれた。
気にしすぎる私と、川の流れのような人生
私は今も気にしいのままだ。
自己否定もするし、落ち込むことも多い。
でも、「それでもいい」と思えるようになってきた。
川の流れのように、
あらゆる出来事が、想いが、時間が、
ひとつの命の流れをつくっている。
苦しみも、迷いも、傷も、
全部が私を構成する“成分”なんだと思える。
変わらなくていい。
でも、見つめる目を持つことはできる。
ヘッセがそうだったように、
どったんバッタンしながらも、
書いて、問い続けて、生きていける。
おわりに──あなたがあなたであることを、祝福する
もしあなたが、
私と同じように気にしいで、
やさしい言葉に救われないでいるなら、
この文章が、どこかで灯りになれば嬉しい。
あなたは、何も「特別」じゃなくていい。
でも、「あなたそのもの」は、すでに十分に特別なんです。
誰にも見えない場所で、
苦しみながらも進んできた人の言葉は、
時に誰かをまっすぐ助けます。
私にとってそれが、ヘッセだったように。
今度は、私の声が、あなたの“川の流れ”の中に加われたらと思います。
