みんなデミアンに出会え。気づけ。そんで生きろ。
「他の者たちと自分を比較しちゃいけない。君が生まれつきコウモリに作られているとしたら、ダチョウになろうなどと思ってはいけない。君は時々自分を風変わりだと考え、大抵の人たちと違った道を歩んでいる自分を非難する。そんな事は忘れなければいけない。火を見つめたまえ、雲を見つめたまえ。予感がやってきて、君の魂の中の声が語り始めたら、それに任せきるが良い。」
──これは、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』に登場するピストリウスの言葉である。
優しくて、強くて、そして決して甘くない。初めて読んだとき、私は泣きそうになった。
「よき子」として生きてきた人へ
デミアンの主人公、エミール・シンクレールは、ずっと「善き子」だった。
両親の言うことをよく聞き、礼儀正しく、品行方正に育った。
でも、ある時から、彼の中に“もうひとつの世界”があることに気づいてしまう。
それは、善でも悪でもない、名前のない衝動や違和感。つまり、「本当の自分」だ。
私たちにも、似たような経験がある。
他人から見て“いい子”でも、自分の中に何かざわつくものを感じていた人。
人と違う道を選びたくても、怖くて踏み出せなかった人。
「空気を読む」ことに慣れすぎて、自分の声を聞けなくなった人。
そんな人にこそ、『デミアン』は語りかけてくる。
デミアンという導き手
シンクレールの前に現れるデミアンは、謎めいていて、怖くて、美しい存在だ。
彼は、「みんながそうしているから」という理由を、まるごと疑ってかかる。
自分の中にしか答えがないことを知っていて、それを生きている。
デミアンは誰か。
答えをくれる人ではない。
“問いをやめさせない人”だ。
その存在に導かれ、シンクレールは“よき子”をやめていく。
他人の期待を裏切ることを恐れず、自分の内なる声に従うようになる。
「自分らしさ」の本質とは
最近は「自分らしく生きよう」という言葉をよく聞く。
でも、その“自分らしさ”って、どこから来ているんやろう。
本当に、自分の中から湧き上がってきた声なんやろうか。
それとも、誰かが見て喜びそうな“キャラ”を演じてないか?
『デミアン』はそこに、ズバリ斬り込んでくる。
「他人と比べるな」とは、単にマイペースに生きろって話ちゃう。
自分の魂の形を、ちゃんと見極めろってことや。
火を見ろ。雲を見ろ。
そのとき、内から語り出す声を、怖がらずに聞いてやってほしい。
芸を持つ人間として、偽らない声を持つために
私は声を使って表現する仕事をしている。
でも、声ってとても正直や。
どんなにうまく技術で繕っても、嘘をついたら、響きが死ぬ。
だからこそ、自分の魂に嘘をついて生きていたら、
表現なんて、できへん。
『デミアン』は、表現者にとっての覚悟を問うてくる。
うまくやることより、うまく見せることより、
「自分の内なる声を聞いて、それを生きる」ことを。
その覚悟があるか?って。
出会ったら、気づかなあかん
この本は、読むだけでは意味がない。
出会ったら、気づかなあかん。
自分が、どれだけ他人の地図で生きてきたか。
自分の声を、どれだけ怖れていたか。
誰しも、大なり小なり「ザワザワの音」を聞いている。
無視することもできる。慣れれば聞こえないふりもできる。
でも、それは何度でもやってくる。
現実の世界でも、ときどき変わり者が現れて、
その存在そのものが、自分の中のザワザワを揺さぶってくることがある。
『デミアン』は、まさにそういう“変人”であり、“導き手”でもある。
この物語は、表現者だけの話じゃない。
声を使わなくても、舞台に立たなくても、
自分を生きるということは、誰にとっても“演じること”との対決になる。
鏡の中の少年は微笑んでいる。
でも、背を向けている少年は笑っていない。
顔が見えなくても、なぜかそれがわかる。
それは、私たち自身が「まだ笑えなかった時の背中」を、覚えているからだ。
ヘルマン・ヘッセの作品を一言にひっくるめると、こう言える。
「自分になれ」
これは、私が人生の節目ごとに、いつも自分に問いかけている言葉でもある。
どうせ生きづらいなら、
自分の声に従って、生きたほうがええ。