『また来たよ』って、誰かが思う声。

私は毎日、あるサイト名を検索していた。

ブックマークをしていたわけでもない。URLを保存していたわけでもない。

でも、検索バーにその名前を打ち込む癖だけは、自然と身についていた。

それが、私にとっての“日課”だった。

そのサイトは、ビジネス情報を網羅的にまとめたものだった。

更新頻度はそこまで高くない。でも、記事のストックがとにかく膨大で、知りたいことを調べるたび、そこに答えがあった。

しかも、表面的なまとめではない。

深く、丁寧で、誠実だった。

書き手の個性は、そこまで前に出ていなかった。

それでも不思議と、そのサイトには温度があった。

何かに追われるように検索していた私の心を、その情報の「確かさ」が静かに支えてくれていた。

“また来たよ”と思わせるサイトには、派手さではなく、積み重ねられた誠実さがある。

私は、その人に会いに行った。

どうしても会いたくなって、東京まで足を運んだ。

不思議なことに、そこから関係が続いた。

いろんなことを教えてもらうようになり、なんと、その人のウェディングパーティーの司会まで務めることになった。

検索から始まった小さな縁が、まさかマイクを持って祝いの言葉を届ける日につながるなんて、あの頃の私は想像もしていなかった。

うまく育てられなかった、昔のサイト

じつは私自身も、かつて自分のサイトを運営していたことがある。

けれど、うまく育てきれなかった。

記事が増えていくにつれて方向性を見失い、途中で止まってしまった。

でも、その挫折があったからこそ、私は「自分が本当に作りたかった場所」を思い描けるようになった。

今こうして『声のトビラ』や『無意味帝国』を育てているのは、過去の反省点があるから。

そして、あの頃出会った“検索してでも通いたくなるサイト”へのリスペクトがあるからだ。

文章もまた、「声」なのだと思う

私は声の仕事をしている。

マイクの前に立ち、言葉を届ける日々を生きてきた。

でも、声はマイクの前だけで響くものではない。

誰かの頭の中に残る言葉や、検索してでも読み返したくなる文章も、立派な「声」なのだと思う。

声優を目指している人には、こう伝えたい。

発信って、何もオシャレに飾らなくていい。目立たなくていい。うまく書けなくてもかまわない。

それより大事なのは、「誰かのために、必要なことを誠実に伝えること」だ。

その姿勢こそが、誰かの“検索窓”に刻まれていくのだと思う。

昔、私は文章が苦手だった

昔、私は文章を書くのが苦手だった。

話し言葉を追求してきた分、書き言葉との距離は遠かった。

接続詞の使い方。長い文は避けなければいけない。リズムは大事。でも整えなければいけない。

てにをは。専門用語。句読点の位置。

書き言葉には、話し言葉とは違う「責任」がある。

言葉は残るから、整えなければいけないのだ。

あの頃はAIなんてなかった。

記事を書いては、真っ赤に添削された。

「読み手のことを考えて書いてる?」と何度も言われた。

1記事に何日もかかった。

時には泣いた。

でも、あの時間が、今の私を作ってくれた。

あの頃、楽をしていたら、私は今みたいに“声と言葉”の重みを、ここまで深く感じられていなかったと思う。

今日も、小さな声を残していく

“また来たよ”って、誰かが思う声。

それは、きっと奇跡なんかじゃない。

積み重ねた言葉と、誠実な意志が、少しずつ届いた証なのだと思う。

だから今日も私は、小さな声をここに残す。

いつか、誰かの検索窓に届く日を信じて。

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